〜「良いところ」をみつける社会へ〜
(2006年6月27日記)


先日、スクールカウンセラーの研修会に行ってきた。テーマは発達障害で、二人の現役のスクールカウンセラーが自分が過去に関わった事例を発表し、それに別の専門家がコメントするという形式だった。事例を聞くのは、他の人たちが現場でどういう風に苦労しているのかが分かるし、コメンテーターの助言もおおむね非常に参考になるものだった。ただ、ひとつ非常に違和感を覚えたことがあった。

 コメンテーターのコメントが、「ここはこうした方が良かった」というある意味批判的な助言ばかりで、うまく行った介入やカウンセラーの努力が実を結んだ部分に対する肯定的な承認が全然なかったのだ。平たく言えば、まったくといってよいほど相手を「ほめない」のである。経験豊富な先達から見れば未熟な面もあったかもしれないが、それでも彼ら2人はそれぞれ自分にできることを精一杯現場で行い、良い面もたくさんあったのに。

 その「ほめない批評家たち」を見ながら私の脳裏によぎったのは、記者一年目にある先輩の元で働いたときのことだった。彼はその部署のキャップだったので、書いた原稿は毎日、デスクに出稿する前に彼に見せる。その時に彼から返ってくるフィードバックは「こういう書き方では伝わらない」「ここはこう書き直した方がいい」という「改善命令」ばかり。一度たりとも、わずか一行でも「ここはよく書けてるね」といったほめ言葉が彼の口から出たことはなかった。もちろん私は文章が下手な未熟な記者ではあったと思う。しかし、一箇所も良いところがないほどひどい記事を書いていたということはいくらなんでもなかっただろう。

 そうした日々が続いたある日、原稿を書き上げた私は「またけなされるのか」と思うとうんざりして、キャップの目を通さずに直接原稿を出してしまった。もちろん、後で嫌味を言われたのは言うまでもないが。毎日毎日、ネガティブなコメントばかりを聞いていると、だんだんその人に相談を持ちかけることがつらくなる。そして何でもこっそり影で処理してしまうようになる。

 これとは対照的な経験もしたことがある。私がサンフランシスコで最も長くインターンをしていたあるカウンセリングNPOの上司は、シャーリーという日系アメリカ人だった。大学院在学中は、学校からインターン先の上司にあてて学生の仕事ぶりの評価レポート提出を求める手紙が届くようになっている。本来ならばもちろんシャーリーが記入して大学院に返送するものなのだが、彼女はそれを私に記入させた。確かいろいろな項目を5段階評価する形式のレポートだった。

 自分の評価というのは、大変難しい。自信のなかった私はほとんどの項目を、平均かそれ以下にしてシャーリーに出したと思う。それを見たシャーリーは個人スーパーヴィジョンの時にその用紙を持ち出した。そして何故そういう自己評価を下したか私に説明を求めてきた。

 「インテーク面接で私はこういう所が足りないと思った」「学校の実習では、こんなところがうまくいかなかった・・・」等々自分を「批判」する私に、彼女は、「でも、あの時はこんな風に上手くいったわよね」「あなたのこういうところが良くできていると思うんだけど」と私の良いところをすべて「承認」するコメントをくれた。結局、レポートの評価は大幅に底上げされて、学校へと送られたのだった。そうすることで、私が自分に抱いていたマイナスイメージもちゃんとスーパービジョンの中でプロセスしてくれたのだ。

 この件に限らず、彼女はいつでも私の良いところを見つけてほめ、力づけ、励ましてくれた。こういう上司だと、個人ミーティングの時間がとても楽しみになってくる。そして、どんな失敗も隠さずすべて相談するようになる。一度初期の対応をミスしてクライアントの家族とトラブルになった時も、私は何のためらいもなく彼女のところへ報告に行き指示を仰いだ。上司との間に信頼関係がなかったら、マイナスの評価を恐れて何とか自分で処理しようとし、結果的に傷を深めていたことだろう。日本の会社でよくある隠蔽体質はこうして生まれる。

 いろいろな場所ですでに数限りなく言われていることではあるが、日本はとかく「減点社会」だ。相手の欠点を見つけてそれを指摘し改善させることが教育だと思っている。私の家庭環境、教育環境もずっとそうだった。故に自分が以前の仕事で後輩を持った時にもおそらくそうした態度で接していたのではないかと、今になって当時の後輩に本当に申し訳なく思う。

 教育とはそういうものではないんだと最初に実感したのは、アメリカの大学院に入った時だった。毎週提出するレポートも、学期末のペーパーも、どの教師もこれでもかというほど肯定的なコメントを書いて返してくれる。私は当時すでに30歳を過ぎていたが、それでもほめられるとこんなにうれしいものかと思った。自分が苦労して書いた文章だから尚更である。おそらくたくさん英語のミスもあったと思うが、そんなことよりも教授陣は内容で評価できる部分をいつも見つけてくれたのだ。ほめ言葉が必要なのは子どもだけではない。

 けなされるというのは、別の側面もある。批判され続けている人の中には、あまりにもそれに慣れてしまい、批判以外のコメントに耳を貸せなくなる人がいる。たまにほめられても、それを素直に受け取れなくなる。ほめられると怒る人さえいる。ほめ言葉というのは、自分の中に沁みこんでいき、それがだんだんと自信につながってゆく心の栄養なのに、その栄養を拒絶し、吸収できなくなってしまう。結果として、人間に一番必要な本当の意味での自尊心が育たない。そうすると、常に人と自分を比べてしまい、他人より優れていると思わないと自己肯定感が持てない人間になってしまう。

 今、アメリカ時代の後輩の相談に乗ることがあるが、日本の職場で上司の心ない言葉に傷ついている人が多くて心が痛む。「あなたは臨床家に向いてない」「やっぱり私がやらなくちゃ駄目ね」等々・・。彼らの話を聞いていると、日本のカウンセラーは本当に後進を育てようという意志があるのだろうかと疑問に思ってしまう。

 「あの子にはこんなに悪いところがあるから、何とか指摘して良くしてあげなければ。私以外に指摘してくれる人もいないだろうし」というのは、愛情のようで実は愛情ではない。本当の愛というのは、常にその人の中の最良のものを見ること、そしてそれを伝えることだと思う。私は、最良の上司とは、「自分の失敗をまったく隠さずに相談できる人」だと信じている。それには、シャーリーのような愛情が必要不可欠ではないだろうか。

 私は今でも、渡米のたびに必ず元のインターン先を訪れ、シャーリーとおしゃべりする。逆に昔日本で働いていた時のキャップには、帰国後ばったり街で出会ったが、気づかなかったふりをして通り過ぎてしまったことがある(笑)。

 さあ、あなたはどちらのボスになりたいですか?



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